忠清南道の現況
位置
忠清南道の地理的な位置は
南端: (錦山郡南一面新洞里)
北端: (唐津市石門面蘭芝島里)
東端: (錦山郡富利面方佑里)
西端: (泰安郡近興面賈誼島里)である。
このように忠清南道は韓半島の中央に位置し、気候上では四季がはっきりしており、気温が温厚な中緯度温帯季節風気候帯に属している。一方、忠清南道は南韓の中央部に属しているので、昔から嶺南と湖南に通ずる三南の関所として、ソウル、釜山、木浦に通じる1番国道、 京釜•湖南線鉄道、京釜湖南高速道路と西海岸高速道路等が通過する我が国の交通要衝地である。これらにより首都ソウルまで1時間台、釜山や木浦までは3時間台に位置している。
面積
忠清南道の総面積は2019年末現在、8,245.5㎢であり全国総面積(100,401㎢)の8.2%を占めており、慶尚北道、 江原道、全羅北道、慶尚南道、京畿道に続き6番目だ。市郡別の面積では公州市が864.2㎢で一番広く、鶏龍市が60.7㎢で一番小さな面積をもつ。
気候
忠清南道の年間平均気温は12.9℃で概ね穏やかだが、全体的には大陸性気候であり、特に冬には北西風を遮る地形的障害物が少ないため同じ緯度上の東海岸よりも寒く、西北部海岸地帯は積雪量が多いのが特徴だ。
地形
国土の中心部に位置し全国どの地域からでも行くことができる交通網を持っており、車嶺山脈を中心に東高東低の地形地勢で海抜100m以下の平野と丘陵地が全体の面積の60%以上を占めており、高い山としては西臺山(904m)、鶏龍山(845m)、大芚山(878m)などがあり、大きな河川としては
揷橋川,曲橋川,無限川などがあり、錦江周辺と河川中心に平野がよく広がり海岸は典型的なリアス式海岸として発達しており、長さが953㎞、満ち潮引き潮の差が大きく加露林湾•浅水湾等の湾がよく発達している。
忠清南道の歴史由来
忠清南道は韓半島の中央部西側に位置する地域として北側には京畿道、東には忠清北道、南には全羅北道との境界を成しており、西側は西海と接する。また、大田広域市を囲んでいる。
1964年に発見された公州市長岐面石莊里の旧石器遺跡と道内全域で発見された青銅器遺跡が証明するように、先史時代から人々が定着した地である。また三韓時代には忠清南道の大部分が馬韓の北辺地として政治的主導権を握っていた月支国は、現在の天安市稷山面一体と推定され、馬韓の54国の内15の小国程度が忠清南道地域に分布されていたと推定される。
三国時代に忠清南道は百済に属した地域として475年(文周王2年)に百済の首都を韓城(ソウル)で熊津(公州)に転都以来660年羅唐連合軍によって百済が滅亡するまで185年間燦爛とした百済文化の花を咲かせた地域である。
統一新羅時代には熊津都督府と所夫里州(泗沘州)、 熊川府、熊州等と呼ばれ、後三韓時代は甄萱が建てた後百済の領域に属するようになる。
高麗時代には河南道、 楊広道、 忠清州道、 忠清道等と呼ばれ、京畿道と融合と分離が繰り返された。
朝鮮時代には太祖4年(1396年)に楊広道を京畿道と忠清道に分離し、 宣祖3年(1598年)には監営を忠州から公州に移転して忠清南道の名称を公清道、忠清道、公洪道、清洪道、公忠道等、幾度にわたって改称されたが純粗34年(1834年)に公清道から忠清道に還元された。
高宗33年1896年勅令代36号により13道制に改編されたことにより忠清北道と分離されて始めて忠清南道として誕生した。
