忠清南道の歴史由来
1964年に発見された公州市長岐面石莊里の旧石器遺跡と道内全域で発見された青銅器遺跡が証明するように、先史時代から人々が定着した地である。また三韓時代には忠清南道の大部分が馬韓の北辺地として政治的主導権を握っていた月支国は、現在の天安市稷山面一体と推定され、馬韓の54国の内15の小国程度が忠清南道地域に分布されていたと推定される。
三国時代に忠清南道は百済に属した地域として475年(文周王2年)に百済の首都を韓城(ソウル)で熊津(公州)に転都以来660年羅唐連合軍によって百済が滅亡するまで185年間燦爛とした百済文化の花を咲かせた地域である。
統一新羅時代には熊津都督府と所夫里州(泗沘州)、 熊川府、熊州等と呼ばれ、後三韓時代は甄萱が建てた後百済の領域に属するようになる。
高麗時代には河南道、 楊広道、 忠清州道、 忠清道等と呼ばれ、京畿道と融合と分離が繰り返された。
朝鮮時代には太祖4年(1396年)に楊広道を京畿道と忠清道に分離し、 宣祖3年(1598年)には監営を忠州から公州に移転して忠清南道の名称を公清道、忠清道、公洪道、清洪道、公忠道等、幾度にわたって改称されたが純粗34年(1834年)に公清道から忠清道に還元された。
高宗33年1896年勅令代36号により13道制に改編されたことにより忠清北道と分離されて始めて忠清南道として誕生した。